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博多織はかたおり

今から約780年前、一人の僧(後の聖一国師)とともに、博多商人満田弥三右門が宋へ旅立ち、織物の技法等を習得したのち帰国。その後、代々受け継がれたのが始まりです。時代とともに改良が加えられ、黒田長政が幕府に献上したことから「献上博多織」の名が起こりました。現在では、帯だけでなく、ドレスやバックなど多彩な商品が登場しています。
(国指定伝統的工芸品 昭和51年6月14日指定)

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  • 博多織の歴史

博多人形はかたにんぎょう

1600年黒田長政の筑前入国に伴って多くの職人が集められ、その職人たちの中から素焼き人形が生まれ、現在の博多人形の下地が作られたといわれています。
明治になり、パリなどの国際的な博覧会で高い評価を受け、日本を代表する人形として知られるようになりました。現在では、純日本風な家屋はもちろん、洋間のモダンな住まいにも癒しの空間を演出しています。
(国指定伝統的工芸品 昭和51年2月26日指定)

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博多曲物はかたまげもの

博多曲物は、杉や檜の薄い板材を曲げ、板の端を桜の皮で綴じ合わせて作る容器で、飯びつ、茶びつ、弁当箱などの生活用品や、茶道で使う建水、菓子器などがあります。
博多曲物の起源は諸説ありますが、江戸時代より盛んに作られ、東区にある筥崎宮の神具として、古くから奉納されてきた伝統を有しています。また、茶道具は今も人気があり、飯びつ、弁当箱はご飯がおいしく食べられると、その良さが見直されています。
(県知事指定特産民工芸品 昭和54年3月31日指定)

  • 博多曲物

博多独楽はかたこま

1,300年前、中国から子どもたちの遊びものとして竹製の唐ゴマが日本に伝えられ、17世紀後半、土台に鉄芯の心棒を打ち込んだ博多独楽が作られました。
それまでのコマとは違い、振りのないよく澄んでまわる博多独楽は手にとって移動させることが可能になり、ここにコマの曲芸が生まれ、各地のコマ芸の発祥となりました。
(県知事指定特産民工芸品 平成2年3月31日指定)

  • 博多独楽

博多鋏はかたはさみ

今から約700年前、南宋の帰化人である謝国明が博多に鋏を持ち帰り、それが唐鋏と称された日本で最初の鋏です。
幕末の頃、博多箔屋町に住む刀鍛冶師の安河内卯助がこの唐鋏の製作に取り組み、世に出ました。
明治13年、高柳亀吉は、卯助翁の弟子となり、やがて師匠の刻印である登録「宇」印の継承を許されました。
明治20年に独立した亀吉が唐鋏を博多鋏と改称し、現在に至っています。
(県知事指定特産民工芸品 昭和56年3月12日指定)

  • 博多鋏

博多張子はかたはりこ

江戸中期、博多御用商人が上方(大阪)へ行った際、張子の作り方を学んできたといわれ、特に「起きあがりこぼし」が庶民の暮らしの中で愛されてきました。
極上の手引きの和紙や新聞紙、フノリを材料とし、人形用の土で作った型、あるいは木の型に張りつけて天日で乾かし、ひとつひとつを手書きで彩色する手作りの民芸品です。
現在でも博多どんたくのにわか面や十日恵比須の飾りの鯛で親しまれ、博多の人々にとって欠かせない物です。
(県知事指定特産民工芸品 昭和58年3月8日指定)

  • 博多張子

マルティ
グラス

マルティグラスとはMULTIPLE LAYER GLASS(マルティプル レイヤー グラス)の愛称で、性質の違ういろいろな色のガラスを何層にも重ねる多重積層ガラスという意味です。
昭和12年のパリ万国博覧会で、日本のガラス工芸としては初のグランプリを受賞しています。伝統を受け継ぎ、高度な技術を持つベテランクラフトマンたちによって、ひとつひとつ息を吹き込まれたマルティグラスは色彩豊かな工芸品として親しまれています。
(県知事指定特産民工芸品 昭和63年3月31日指定)

  • マルティグラス

今宿人形 いまじゅくにんぎょう

今宿人形は土の型を使って作る、博多人形の母体となった民俗土人形。明治38年、初代大橋清助が今宿街道沿いに「人形屋清助」を開いたのがはじまりです。伝統的な生活文化や伝承文化、信仰など人々の暮らしに結びついたものが多くみられます。代表的なものに火災・盗難よけの「猿面」や「笹野才蔵」、「おたふく面」などがあります。現在は、清助と甥の重雄が大切に使ってきた土型を引き継ぎ、重雄の姪が伝統を守り続けています。
(県知事指定特産民工芸品 平成29年5月30日指定)

博多
おきあげ

おきあげとは、羽子板や壁掛けなどに描いた下絵を布や綿を使い、立体的に盛り上げる押絵細工のこと。手描きの面相(顔)の繊細さが魅力的です。もともと、江戸時代に宮中の女官らによって作られており、幕末に、今の博多区須崎町にいた画家・村田東圃(とうほ)の妻・千賀が博多の町に広めたといわれています。明治、大正時代には博多の女性の教養の一つで、女の子が誕生すると、災いをはねのけ健やかに育ってほしいという想いを込め、おきあげを贈る習慣がありました。
(県知事指定特産民工芸品 平成28年4月1日指定)